ファイティング原田
この前ちょっとファイティング原田のこと批判的に書いたんでその偉業も紹介しますわ。
戦績 63戦 56勝(23KO) 7敗
本名 政彦
ファイティングのリングネームは長嶋の欠番扱いみたいな感じで欠名扱いで日本のボクサーはこのリングネーム使えないらしいですわ・・・
米屋の息子として生まれるが家は裕福ではなく(この時代たいていの家がそうだったようだが)家計を助けるために米の配達などをするまじめな少年だったが配達途中でボクシングジムを見つけ自分でお金を貯めて入門する。
13戦目に東日本新人王決定戦で、後の世界王者海老原博之と対戦、二度のダウを奪う判定勝ちで勝利。
この試合は後の世界王者同士の戦いとしていまだに伝説の試合になってる。
15戦目で西日本代表を下し全日本新人王に。
( この試合はバンタム級転向試合だったが負けてしまいフライ級での世界戦のチャンスが巡って来ることになる。)←いんのんさん受け売り
しかし、すぐに再起し28戦目に世界タイトル挑戦の機会が転がり込んでくる。
ポーン・キングビッチと世界タイトルマッチが決まっていた矢尾板貞夫がジムとの確執で突如引退、その代打的にチャンスが巡って来たのだった。
だが、世間は世界ランクに入ったばかりで日本、東洋のタイトルも取ってないひよっ子、原田には期待はしていなかった・・・(最近の急造挑戦者のはしりかもしれませんな~でも違うところは勝つ所!)
そういう状況でプレッシャーもないし見返してやるという反骨精神もあっただろう、原田は世間をあっといわせるのであった!
ポーン・キングビッチがなめていた部分もあるだろうが、これをKOで下し、日本人2人目の世界チャンピオン誕生となったのであった。
減量苦もありバンダム級に転向することに。
バンタム級に移って減量も少しは楽になり、連勝。
しかし、34戦目、無冠の帝王、メキシコのホセ(ジョー)・メデルと対戦、いつもどおりにラッシュでロープ際に押し込んで優勢だったが一瞬の隙をカウンターで突かれ6ラウンドにKO負けを喫するのだった・・・
この試合と関光徳との試合でメデルにはロープ際の魔術師との異名がつけられたのだ。
そして43戦目に、世界二階級制覇をかけて”黄金のバンタムの異名を取る ブラジルのエデル・ジョフレと対決する事に!
ジョフレは今まで無敗で、バンタム級王者になって防衛戦をすべてKOで終わらせている強豪チャンピオン。
予想不利の中、原田は家族で旅行気分で日本に来たジョフレに対して絶対に負けられないと誓うのであった。
ジョフレは東洋の果て日本のチャレンジャーをかなり見くびっていたのだろう,いつもの切れもなくズルズルと原田のラッシュに巻き込まれてペースを乱し、決定打を打ち込めぬままに終了ゴングを聞くのだった。
日本人初の二階級制覇と友のともに世界的評価の高いジョフレに初黒星をなすりつけた腹打破大きく注目を浴びるのだった。
ノンタイトルで日本人相手に接戦を許してしまうが、45戦目にアラン・ラドキンを向かえ初防衛戦を行いコレを判定で下しV1。
ノンタイトルを2つはさみ、2度目の防衛戦で再びジョフレと対決。
今回は気合を入れてきたジョフレだったが、またしても原田に僅差判定で敗北を喫してしまう。
ジョフレに勝ったのがまぐれでないことを示した原田!
50戦目にKO負けを喫したホセ・メデルと防衛戦を行い判定勝ちしV3とともに雪辱するのであった!
52戦目にベルナr・カラバジョを判定で破りV4。
しかし、55戦目、ライオネル・ローズとの5度目の防衛戦を判定で落とし王座滑落・・・
次はフェザー級に階級をあげるのであった。
三連勝した後、アルトン・コルターに判定負けを喫する(ちなみに相手のセコンドにはマック・クリハラがついてた)もすぐに再起、一戦はさんだ後に、ジョニー・ファメッションの持つフェザー級王座に挑戦することが決まる。
このタイトルマッチは敵地オーストラリアで行われたが、原田は2R,11R,14Rと三回もダウンを奪い、ファメッションは半ば失神していたのだが、レフェリーに無理に起こされて試合を再開させたりと無茶な地元びいきによるレフェリングにより15回判定の試合は原田の負けにされたのであった・・・
この後パット・ゴンザレスを8ラウンドKOに下しファメッションとの再戦を日本で行うがもう燃え尽きていたのか?良いところなく14ラウンドKOで敗れてしまう・・・
そのまま引退する原田であった・・・