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ボクシングの事書いてます

150年に一人の逸材と謳われた男 大橋秀行 ~井上尚弥の師~


 林壮一さんが井上尚弥の所属ジム大橋ジムの会長で元WBC,WBAミニマム級王者の大橋秀行会長について書いています。
 

【1】~世界初チャレンジ、WBCライトフライ級タイトルマッチ、張正九戦の敗北から学ぶ~

WBAバンタム級チャンピオン、井上尚弥。日本ボクシング史上、最高の素材とされる男である。ニックネームはモンスター。既に3階級制覇を成し遂げながらも、井上は更なる高みを目指している。その、モンスター・井上が所属する大橋ジム会長の大橋秀行もまた、150年に一人の天才と謳われた世界チャンピオンであった。

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大橋会長は、そんな愛弟子に目を細めながら言う。「ボクサーって1度負けたら終わりくらいに思うじゃないですか。現役時代は、僕もそう発言していました。“負けたら最後”くらいの覚悟でリングに上りましたからね。ああいうことが言える井上のメンタルも、過去に見たことが無いほどの強さなんです」
でもね、と大橋は続けた。
「ボクシングって負けて強くなるんですよ。僕自身、世界タイトルマッチで敗れた相手、張正九(元WBCライトフライ級王者)との2試合、そしてWBCミニマム級タイトルを獲られたリカルド・ロペス戦は、自分が勝った試合よりも印象に残っています。負けたことで、以前の自分より遙かに強くなれました。敗北から学び、次は〇〇しよう、××しようって、身を入れたトレーニングになるものです。
井上は無敗なのにそういう心境になっているというのは、末恐ろしいというか、ハートもモンスターだな、と」
1986年12月14日。大橋は「韓国の鷹」と呼ばれ、当時、同国で最も人気のあった張の持つWBCライトフライ級タイトルに挑んだ。敵地である大韓民国の仁川でのファイトだった。この時、大橋は世界初挑戦。張は、同タイトル11度目の防衛戦だった。
「会場は3万人以上の観衆で埋まっていました。僕がリングに向かって歩いても、客が押し寄せて来て花道が無かったほどです。歓声にかき消されて、セコンドの声も聞こえませんでした。主催者からは『もし、キミが勝った場合は、リングの下に潜ってくれ』という指示が出ていました。暴動になって危ないからって」
反日感情が、今よりもずっと強かった時代である。大橋は仁川に向かう飛行機の中で、異様なプレッシャーを感じていた。
「神風特攻隊って、こんな心境だったのかな、なんて思ったものです。でも、当時、韓国内で一番実力があった張正九と、そんな状況下で打ち合ったんです。あの時の気持ち思えば、今、何があっても緊張なんかしませんね。物凄くいい経験でした」
張は絶対に下がらない、典型的なブルファイターだった。
「張は、僕が高校生だった頃に世界王座に就いたんです。日本人ボクサーって、どちらかというと、綺麗なボクシングをしますよね。僕は、ああいうガンガン攻めまくるコリアンファイターに憧れを抱いていたんです。そんな張と世界のベルトを懸けて戦えるんだなって、試合前に睨み合った時、不思議な感覚でした」
祖国の大声援を背に受けた張は、この日も前進した。大橋はカウンターに活路を見出そうとしたが、第5ラウンドにKOで敗れる。悔しさと共に、清々しさを感じている自分がいた。
「張正九との第1戦で穿いた僕の黄色いトランクスは血塗れになったんですが、それをクリーニングに出さずに、そのまま置いていました。あの試合では、このパンチをもらったけれど、次に戦う時はこう躱して…って考えましたね。克服するっていうのかな。その過程は楽しいものでした。負けから学ぶことって、本当に沢山あるんですよ」

【2】激闘終了後に芽生えた張正九との友情

張への初挑戦から1年半後、大橋は雪辱を誓ってリターンマッチのリングに上がる。場所は東京、後楽園ホールであった。同ファイトで大橋は張を追い詰めはしたが、計7度のダウンを喫してのKO負けを食らう。

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1988年6月27日。大橋は、張との第2戦を迎える。張にとっては、15回目の防衛戦だった。2ラウンド終盤、接近戦での打ち合いのなかで大橋は右のショートカウンターをヒットし、張を追い込む。
翌第3ラウンド1分31秒、大橋は張の左フックを浴びてダウン。起き上がり、試合再開後にも右アッパーを顎に食らって2度目のダウン。2分16秒、右ストレートをヒットされ、3度目のダウン。
万事休すかと思われた大橋だが、同ラウンド残り16秒で放った右のアッパーが張の顔面を捕らえると、チャンピオンはダウン寸前に陥る。カウンターボクサーである大橋の真骨頂であった。
馬力で勝る張は、このダメージを立て直し、大橋を攻め続ける。7ラウンド、8ラウンドと2度ずつ挑戦者がダウンし、レフェリーが試合をストップした。
「張正九は、僕が戦った相手の中で一番思い入れのある選手です。今でも張からは週に1回くらい電話が掛かって来るんですよ。英語と韓国語と日本語のチャンポンで会話しています。いつも1分くらいですが(笑)。井上の試合も、いつも韓国から応援に来てくれますよ。僕と張は酒を酌み交わす関係です。
ボクシングの試合は、相手だって緊張しますし、リングに上がるまでの練習過程で苦しい思いをしているんです。だから戦った相手は、皆、仲間です」
張との戦いの後、大橋は1回級下のミニマムに落とし、3度目の挑戦で世界チャンピオンとなる。1990年2月7日のことだった。
「過去を遡れば、僕は高校2年でインターハイ王者(モスキート級優勝)になったのですが、その後の東西対抗で沖縄代表の同学年の選手に負けちゃったんですよ。奴に勝たなければ、3年次のインターハイで連覇できないじゃないですか。
だから悔しさを糧に、死に物狂いで練習したんです。でも、翌年のインターハイも彼に負けちゃったんですよ。高3の時の東西対抗でやっと勝てたんですが、同じ相手に食らった2敗のお陰で練習に打ち込めたんですよね。
勝つに越したことはありませんが、勝ち続るって無理ですよね。絶対にいつか負けるじゃないですか。ボクシングだけじゃなく、人生だって絶対に負ける。そこでガクッと落ち込むのではなく、前向きに、挑んでいく。僕は負けた時にそういう癖が付いています。
今でも、ジムの経営者として、あるいは、社会人として負けっぱなしの時があるんですが、その度に『よし、これでもっと強くなれる』という気持ちになれるんですよ」
大橋がWBCミニマム級王座に就くまで、日本人選手が世界タイトルに挑戦し敗れること“21”という残念な記録ができていた。それを止めた大橋は、一躍時の人となる。
 

【3】リカルド・ロペス ~かつて、パウンド・フォー・パウンドという言葉は、彼のためにあった~

WBCミニマム級タイトルを獲得し日本で唯一の世界チャンピオンとなった大橋は、4ヵ月後に初防衛に成功する。2度目の防衛戦の相手は25戦全勝18KOで、後にボクシング界の“伝説”となるリカルド・ロペス(メキシコ)であった。

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リカルド・ロペスという伝説のボクサーが、同じ時代に生きていて、その彼と戦えたというのは、僕の誇りです。そんな選手と戦えるのであれば、やらない手は無いじゃないですか。ロペスのサイドへの動きは、それまでに経験したことの無いものでした」
そう大橋が振り返るロペスとの試合は、1990年10月25日、後楽園ホールで行われた。序盤に大橋のショートの右がロペスを捕らえるシーンもあったが、挑戦者は常に自分の距離を保ち、大橋のパンチをもらわない。第4ラウンドに1度、第5ラウンドに2度倒され、大橋はベルトを手放した。
以後、ロペスは同タイトルを21回防衛。晩年はミニマム級に留まることが難しくなったが、IBFライトフライ級王座を獲得し、52戦 51勝 37KO 1引き分けの戦績で、チャンピオンのまま引退した。
攻めて良し、守って良し。ロペスのボクシングは「精密機械」と評されたが、“打たせずに打つ”という理想を体現した。ただ、本場、アメリカにおいて最軽量級のミニマムとは、大きなビジネスにはならない。ロペスの試合はマイク・タイソンの前座で組まれることが多かったが、PPVからは外され、客もまばらなアリーナでのファイトが続いた。
それでもロペスは自身の存在を証明したのだ。
<パウンド・フォー・パウンド>~もし、全ての階級の世界チャンピオンが同じ条件で戦ったとしたら、誰が最強か?~
紛れもないタラレバの論議だが、こうした考え方がボクシング界に存在することが、ロペスの価値を高めた。
ロペスのラストマッチはマディソン・スクエア・ガーデンで催された統一ミドル級タイトルマッチの前座であったが、セミファイナルに組み込まれPPVで全米に放送された。ボクシング屋には遅過ぎた感が否めないが、素人が見ても、そのレベルの高さは十分に感じ取れた。最後の試合で初めてロペスの姿を見た人間も「この人は実力者だね」と舌を巻いた。
大橋は言う。
「ロペスは僕とのタイトルマッチから、ちょうど13年後の2003年10月25日に引退会見をやったんです。その際『一番嬉しかったのは、東京で大橋からベルトを持ち帰った時だ。試合前に握手したら、大橋の握力が凄くて、足が震えてしまった。それをバレないようにするのに必死だった。リング上でメキシコ国歌を聞きながら、恐怖感で涙が流れて来た』って語ったんです。
確かに、ロペスは泣いていました。だから僕は、今、ジムの選手たちに言うんです。『あの伝説のロペスでさえ、怖くて震えながら泣いていたんだ。怖がるって、恥しいことじゃないんだぞ』って」
そして大橋は微笑む。
「僕が世界王座に付けたのは運である部分も大きいです。自分よりも前にリカルド・ロペスがチャンピオンになっていたら、なれなかったでしょうから。伝説の男と戦うって価値のあることじゃないですか。引退後にWBC等の総会なんかに行くと、あのロペスと拳を交えた男かって、周囲の人が大きな反応をしてくれます。
だからウチのジムの選手にも『負けを恐れるな、負けても終わりじゃないから。またチャンスは来るぞ』と伝えているんですよ」
強い選手と戦う。それは、大橋が現役時代に所属したヨネクラジム、米倉健司会長の方針であり、現在、ジム経営者となった大橋が受け継いだものでもある。
 

【4】ヨネクライズムを継承する大橋ジム

ロペス戦の敗北から2年。大橋はWBAミニマム級王座に挑み、再び世界チャンピオンとなる。が、初防衛戦で敗れ、引退を決意する。リングを離れてからおよそ1年後に、自身の故郷である横浜に大橋ジムをオープンした。1994年のことだ。以後、川嶋勝重八重樫東井上尚弥と3名の世界チャンピオンを育てている。

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「プロボクサーとして成功するか否かを分ける要素というのは、“やり切る気持ち”じゃないでしょうか。とにかく、やり続けることが大事です。素直な負けず嫌いというのかな…。また、人の意見を良く聞くことも求められますね。ウチでチャンピオンになったのは、皆、そういうタイプですよ」
大橋ジムから一人目の世界チャンピオンが誕生したのは、2004年6月28日のことだ。川嶋勝重WBC世界スーパーフライ級タイトルに挑み、1度負けた相手、徳山昌守 を初回で下したのだ。
「川嶋は世界チャンピオンになりましたが、彼より素質のある人間は呻(うな)るほどいました。当初は、プロテストさえ受けさせませんでした。4回戦の4戦4敗の選手にスパーリングでやられて、過呼吸で倒れちゃったことがあるんです。『お前、危ないよ。ボクシングは向いてないからやめておけ』って言いました。
そんなことが2~3回あったのですが、アマチュアの試合に出してみたらKO勝ちしたので、『まぁ、やってもいいよ』ってことになって。とはいえ、なれても日本チャンピオンかな、と思っていました。
川嶋は負けず嫌いで集中力が図抜けていました。いつも3分間、全力なんですよ。それは八重樫、井上以上ですね。3分間、サンドバックをフルスイングで打っていました。それを毎日5~6ラウンドやった後、特別練習で30分間、強く打ってから連打、強く打ってから連打というメニューを30分間ぶっ続けでやりました。あの気迫と集中力は凄かったです」
川嶋は、ボクシングに対するそれまでの大橋の見解を覆してみせた。
「僕、世界チャンピオンって生まれて来るものだと信じていました。作られるものではないと思っていたんですね。でも、川嶋の存在によって考えが変わりましたね。ビックリしました。
川嶋はまったくの素人から21歳でボクシングを始め、頑張って世界チャンピオンになった。その背中を八重樫が見ていた。当時、合宿で走り込ませると、川嶋は八重樫のスピードにまったく歯が立たなかったんです。
でも、10日くらいの合宿のうち、5日目、6日目になると、疲れて来るから最後は川嶋が勝つんですよ。耐久力が違うんですね。そういう姿を、ジムの後輩たちは目にしています」
高校チャンピオンとして拓殖大学に進学し、大学時代も国体で優勝経験のある八重樫東は、川嶋が世界タイトルを2度防衛した頃、プロデビューした。
「八重樫は当初、今の井上尚弥並みのエリートだったんです。ボクシングもスピードがあって、距離も取って、アウトボクシングをやっていました。2007年6月4日の世界初挑戦で、顎の骨を折られたんです。
また、その翌年にも帝拳ジムの辻昌建選手に判定負けしました。辻選手は、八重樫との試合後、2試合しているのですが、残念なことにリング禍で亡くなりました。
八重樫は、その頃から変わっていきました。辻選手が亡くなった際、『自分には、プロとしてやっていく覚悟が足りない』と思い知らされたんでしょうね」
八重樫はボクシングスタイルをも変えた。激しい打ち合いで相手の心を折るような戦いを見せるようになっていく。2度目の世界挑戦でWBAミニマム級タイトルを奪取。その後、WBCフライ級、IBFライトフライ級のベルトも腰に巻いた。35歳となった現在は無冠だが、先の8月17日に前WBOアジア太平洋スーパーフライ級王者の向井寛史を7回TKOで下して、存在感をアピールした。
「八重樫には4階級制覇を狙わせます。ここまで来たら、やらせます。8月17日の金曜日に試合が終わって、20日から練習しているんですよ。ロードワークは試合の翌日からやっています。正直、僕は『やめろ』って言っているのですが、『筋肉が落ちちゃう』ということで。ある程度の年齢にいくと、練習量を落とすじゃないですか。
でも、八重樫の場合は逆なんですよ。年を食っているからこそ、もっとやらなきゃいけないって、若い選手の倍以上のメニューをこなしています。潰れる直前のギリギリのところでやっているんじゃないかな…。120キロのバーベルを上げたり、鬼気迫るものを感じますよ」
確かに、黙々と汗を流す八重樫の姿は、ジムの空間にピリッとした緊張感を生んでいる。
「そして今は、八重樫の背を井上が見ているんですよ。1994年のジム開設から、ようやく僕が理想とするいい流れが出来て来たな、という感じですね。人それぞれ性格がありますから、選手の特徴を把握することが指導者には求められます。
ウチの選手は全員、謙虚です。ファンを大切にしろと日頃から教えています。見に来る方がいなければ、ただの喧嘩ですからね。ボクシングは見に来る人がいてこそ成り立つのだから、感謝して大事にしないと。ファン10人に丁寧な対応をしても、一人を蔑ろにしてしまったら、1発で終わるんだ、ということは、常に言っています」
こうした大橋の指導は、現役時代に師である米倉会長から叩き込まれたものだ。
「米倉会長からは『いくらお前が150年に1人の天才でも、必ずいつか負けるから。人間って、負けた時が大事なんだ。勝っている時は周囲がチヤホヤしてくれるし、一生懸命練習するけど、1回負けると、不貞腐れて練習しなくなってしまう。そういう奴を沢山見て来た』といつも説かれていました。
本当にそうなんですよ。負けるとモチベーションが途絶えちゃうんですね。結局、僕は米倉会長と同じことを選手に言っています。最近は、歩き方まで似ていると言われています(笑)」
井上尚弥の快進撃には、彼が花を咲かせるために無くてはならない土壌と、肥料と、良質の水がある。だからこそ、日本ボクシング界の至宝は、真っ直ぐに伸びているのだ。