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69歳になった“BIG”ジョージ・フォアマンの今


 林壮一さんのジョージ・フォアマンへのインタビューの続きです。
 世界王者、それだけでも尊敬されるべき地位の人ですが、実際に会ってみると幻滅する人、愛想のかけらもなくファンを大切にしない人もいます。
 昔、モハメド・アリが少年だったころファンだったシュガー・レイ・ロビンソンにつれなくされて
 「俺は絶対にそうはならない」
  誓ったそうです。
 アリはだからサインを求める人には断らなかったしいつでもファンに対して誠実だったという逸話はよく聞きます。
 人間的魅力というのは肩書とは別のもの。
 フォアマンやアリは偉大な人ですが、世界王者、ボクサーになっていなくても素敵な人で人を魅了する人であったことは確かだと思います。
 林壮一さんは完全にフォアマンの人間力に魅了されたみたいですなぁ~~
 フォアマンは見てるだけで魅力的な人柄がわかります。
 
 では、インタビューの続きを!



69歳になった“BIG”

ジョージ・フォアマンの今



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自身の教会の前に立つフォアマン 撮影:Troy Taormina
メキシコ五輪で金メダルを獲得してから今年で50年。ジョージ・フォアマンにとって、メダルは通過点であった。3月下旬、今なお、ヒューストンの大地で闘い続ける豪傑と、9年ぶりの再会を果たした。現役時代に113.4キロだったフォアマンは、前回のインタビュー時よりも10キロ以上痩せているように見えた。体重を訊ねると、正確な数字は答えなかったが、「野菜中心の食事にして健康を維持している」と笑った。

金メダリストながら「アンクル・トム」と呼ばれて

 ジョージ・エドワード・フォアマンは、1949年1月10日、テキサス州マーシャルで誕生した。7人きょうだいの5番目。生後間もなく、フォアマン家は同州のヒューストンに移り住む。父親は育児らしいことを何もせず、コックとして働く母親の僅かな収入によって一家は支えられた。
 いつも腹を空かせていたフォアマンは、中学校を“中退”し、路上で大人を襲っては金を巻き上げ、食料を購入した。「どうぜ俺は何者にもなれっこない」と荒んだ日々を送るなか、当時の合衆国大統領、リンドン・ベインズ・ジョンソンが設けた職業部隊に関するTVコマーシャルを目にする。ブラウン管の向こうでNFLのスター選手が言っていた。「キミにもセカンドチャンスがある!」

 
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リンドン・ジョンソン大統領 写真:ロイター/アフロ
 16歳で故郷を離れ、職業部隊に入隊。そこで教養を身につけ、ボクシングの手解きも受けたフォアマンは、3年足らずで五輪の金メダリストとなる。19歳だったフォアマンは、リング上で無垢な喜びを表し、小さな星条旗を振りながら四方にお辞儀をした。
 この行為が思わぬ事態を引き起こしてしまう。フォアマンがアマチュア世界一を勝ち得たメキシコ五輪が開催されたのは1968年。前回の記事で触れたように、アリが徴兵を拒否したベトナム戦争の真っ只中である。同五輪では、男子200メートルスプリントで金メダルを獲得したトミー・スミスと、銅メダリストとなったジョン・カルロスが、表彰台で黒い手袋を嵌めた拳を突き上げ、「アメリカは我々に自由を与えようとしないが、黒い肌は優れているのだ」とアピールした。2人のスプリンターは選手村から追放されたが、モハメド・アリのバトンを受けたアスリートとしてマイノリティーから喝采を浴びる。
 一方のフォアマンは、「白人に媚びるアンクル・トム」と見られ、決定的な悪役としてプロに転向することとなった。

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牧師として

 無類のハードパンチでKOの山を築きながらも、フォアマンはアリのような人気を得られなかった。キンシャサでの敗北(1974年)は、アリを更に輝かせることとなった。それでもフォアマンは、アリとのリターンマッチを見据え、1年3ヵ月後にリングに復帰し、5連続KO勝ちを収める。
 だが1977年3月、28歳の時に思わぬ伏兵に足元を掬われてしまう。対戦相手はフォアマンのハードパンチに耐えながら、試合が長引けば勝機ありと踏んでいた。この日のフォアマンは、アリ戦以来の第8ラウンドを迎え、またしてもスタミナを失っていく。そして、最終12ラウンドにダウンを喫し、判定で敗れる。
 ファイト後のドレッシングルームで、意識が朦朧とするなか、フォアマンは「神がここにいる!」「ハレルヤ!!」などと叫び始めた。傍らにいた実弟のロイは、当時を振り返って言う。
 
 「『エクソシスト』っていうホラー映画を観たかい? あんな感じだったよ。周囲は、ただただ呆気に取られていた」
 
 フォアマン曰く「啓示を聞いた」のだという。彼はボクシングから離れ、牧師としてジーザス・クライスト(イエス・キリスト)の教えを説くようになった。その一方で、ユースセンターを築き、かつての自分と同じ境遇に生きる若者を救うことを自身に課した。
 「私自身、リンドン・ジョンソン大統領によって救われた男だから、今度は昔の自分のような境遇に置かれた若者をサポートしようと考えたんだ。故郷であるヒューストンで、未来の見えない子供たちと関わってくことを決めた」

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撮影:Troy Taormina
 が、会計士に資金を横領され、昔の恋人に訴訟を起こされるなどフォアマンは破産寸前にまで追い込まれる。教会やユースセンターを手放すわけにはいかない。フォアマンは38歳にして、ボクサーとしてカムバックすることを決める。2度目の黒星から10年が経っており、フォアマンの決意をせせら笑う者も少なくなかった。

10年ぶりのカムバック。45歳で世界ヘビー級チャンピオンに返り咲く

 「カムバック後は、私もアリのように愛されるキャラクターになろうと努めた。アリからは人を愛し、また愛され、人生を楽しく生きろ、と教わったよ。あんなにエキサイティングな人は見たことが無かったからね」

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練習の合間に子供と触れ合うアリ 写真:Shutterstock/アフロ
 確かに歳月はフォアマンを変えた。メキシコ五輪後にプロ入りし、28歳で引退するまでの彼は、無口で獰猛な王者を演じていたが、復帰後は笑顔を絶やさず、いつもユーモアに溢れ、サービス精神を忘れずに周囲と接した。
 フォアマンは、“BIGジョージ”と呼ばれる。BIGという言葉は、身体のサイズを表すだけでなく、人間的な大きさも含まれる。故郷の隣人のため、崩壊家庭に生まれて犯罪者になりつつある少年たちを支えようと闘うフォアマンに、敬意を払う形で贈られたニックネームなのだ。
 そのフォアマンがアリに近付いたのは、42歳にして時の統一ヘビー級王者、イベンダー・ホリフィールドに挑んだ一戦だった(1991年)。カムバック後の戦績を24戦全勝23KOとし、堂々と世界ランカーに名を連ねたフォアマンが、28歳のホリフィールドに対し互角の攻防を見せた。終盤にローブローで減点された挑戦者は判定負けを喫するが、そのファイティングスピリッツは勝者となったホリフィールド以上に称えられ、全米中を感動の渦に巻き込む。
 3年後の1994年、ホリフィールドを下したサウスポーのマイケル・モーラーが新王者となると、“BIGジョージ”は2日後にチャレンジャーとして名乗りを上げる。
 「モーラー攻略本という著書が出せるくらいに研究した」
 そうフォアマンは振り返るが、無敗の快進撃を続けるモーラーのジャブを序盤から浴び、ポイントを失う。ワンサイドでモーラーの防衛か----という流れだった第10ラウンド1分48秒。フォアマンのワンツーがモーラーの顎を打ち抜き、チャンピオンは腰からキャンバスに崩れ落ちる。リング上で大の字になったモーラーは何度か首を擡げたが、カウントアウトされた。

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1994年 モーラーをKOしたフォアマン 写真:ロイター/アフロ
 フォアマンは、実に20年ぶりに世界ヘビー級チャンプに返り咲いたのだ。フォアマン以外に成し遂げられる筈もない、45歳9ヶ月での大金星だった。正しく偉業として形容できない勝利は、フォアマンをアリに勝るとも劣らない国民的英雄にした。
 

思わぬ判定でのラストマッチ。しかし、己の使命を全うする“BIGジョージ”

 モーラー戦後のフォアマンは、「この年齢のファイターがどれだけ闘えるかをみせたい」と、タイトルに拘らずにリングに上がる。だが、1997年11月22日、48歳のフォアマンは25歳のブリッグスに完勝しながらも疑惑の判定で敗者となってしまう。生きた伝説であるフォアマンにとって、これがラストマッチとなった。
 「あんな判定を最後にしてしまっていいのですか?」
 私は幾度と無く、彼にそう訊ねた。その度にフォアマンは「ボクシングは愛しているが、ビジネスの一つだ。いい話があれば契約するがね」「私はフルタイムの牧師であって、ボクサーはアルバイトなんだ」などと明言を避けた。

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ブリッグス戦のフォアマン 写真:ロイター/アフロ

ユースセンターで若者を支援

 フォアマンがボクシング以上に力を注いでいるのが、教会であり、ユースセンターでの活動だった。
 ユースセンターとは、地域の駆け込み寺のようなものである。不登校になった子供や、家庭でトラブルを抱えた若者が自らの悩みを打ち明け、第3者である大人との時間を共有し、安らぎを得るのだ。フォアマンのユースセンターには、ボクシングジム、筋肉トレーニングのジム、バスケットコートなどがあり、やって来る若者たちに合ったプログラムが施される。

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                     教会の入り口 撮影:著者(林壮一)
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ユースセンター内のボクシングジム 撮影:著者(林壮一)
 「ユースセンターでは、子供たちに何かを教えるということはしない。彼らとコミュニケーションを取ることに意義があるからね。『キミたちがここに来ることを、ジョージが望んでいる』と思ってもらえたらいいのさ。同じ空間で一緒に遊んだり、冗談を言って笑い合う、そんな触れ合いが大切なのさ」
 
 フォアマンと付き合い始めた頃、私は述べるまでも無くボクサーである彼に惹かれていたが、取材を重ねれば重ねるほど、ユースセンターのオーナーである“BIGジョージ”に魅力を感じていった。
「幸いなことに私はセカンドチャンスを得られ、多少、他者からの注目を集めている。ここに来る子供たちは他者から勇気付けてもらいたいんだ。時間をかければ、大抵の子は心を開いていくよ」

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撮影:Troy Taormina
 私はフォアマンに影響され、一時期、アメリカ合衆国で底辺とされる高校と小学校の教壇に立ったことがある。その際、彼は短く、こうアドバイスしてくれた。
 
 「Be Father」(父になってやれ)
 
 フォアマンのような度量の無い私には、とても父親代わりなど務まらなかったが、BIGジョージがいかなる思いで若者たちと向かい合っているのかは理解できた。リングで闘うほどの派手さは無いが、故郷に腰を据え、黙々と日々の作業をこなすフォアマンの姿に感銘を受けた。
 そのジョージ・フォアマン・ユースセンターは、4つの建物が存する。そのうちの2つに、「モハメド・アリ・ビルディング」「ジョー・フレージャー・ビルディング」と、かつてのライバルの名が付けられていた。フォアマンは己の人生に大きな意味を持つライバルに敬意を払い、自身の活動の場に彼らの名を刻んだのだ。

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ジョー・フレージャー・ビルディング 撮影:著者
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モハメド・アリ・ビルディング 撮影:著者

ハリケーン・ハービーの避難所となったユースセンター

 昨年8月、大型ハリケーンであるハービーがヒューストンを襲った。ハリケーン・ハービーの影響で命を落とした人の数は、今日までに103名を数える。被害総額は1億2千500万ドル。
 この時、フォアマンは自身のユースセンターを避難所として使ってくれ、と扉を開け、被害に遭った人々を受け入れている。400人強が、ジョージ・フォアマン・ユースセンターで避難生活を送ることとなった。

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            ハリケーンで被害を受けた住宅 写真:ロイター/アフロ
 「ハリケーン・ハービーがヒューストンを襲った際、私はユースセンターを避難者に使ってもらった。水や食料を届けたよ。彼らに必要なものを可能な限り用意した。被害に遭った方々は、2ヶ月くらいユースセンターで過ごしたかな。いつも共に生きているのだから、隣人としてベストな振る舞いをしたいと思っている」
 こういう台詞を自然に吐けるのがBIGジョージの“BIG”たる由縁なのである。
 かつてフォアマンは、「ユースセンターを増やす気はない。この地で、青少年と私自身が接することに意味がある」と語ったが、その言葉の意味を把捉できたように思えた。
 とはいえ、地元紙さえもフォアマンの活動には触れていない。それは彼が、売名行為と受け取られることを嫌うためだ。
 「隣人たちのために、出来ることを最大限やる。人間にとって当然のことさ」

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撮影:Troy Taormina

アドバイスはBe Happy

 フォアマンが自らの成功を故郷に還元する哲学は、キリストの教えなのか、セカンドチャンスを得られたことの感謝に起因しているのか、あるいはボクシングから学んだことなのか?
 「全ての要素が含まれているよ。ジーザスと出会った折、私は神のために生きることを決めた。アメリカ合衆国の政策である職業部隊が、私を照らしてくれた。いつだって、その恩を返したいと考えている。人生とは厳しく、険しい。ひとつ間違えばボロボロになってしまう。でも、常に努力を続けていれば、必ず道は拓ける。ネバーギブアップ。私はボクシングから、そんな精神を教わった。
 教会やユースセンターに足を運べない人々にも言いたい。『幸せを見付けながら生きようぜ』って。もし、今日が辛い日だったとしても、いくらでも変えることはできる。今、困難に直面していても、別の日、別の週は、ベターな日を築ける。人生ってそういうものだよ。だから私は『Be Happy』って言うのさ。物事をネガティブに捉えたり、落ち込んでいても仕方ない。人は己の人生を踏み出さなきゃいけないのさ」
 69歳となったフォアマンは、自身を冷静に見詰めているようだ。
 「今、私は非常に幸せな生活が送れている。起床し、小鳥の囀りを耳にすると心が平穏になる。青空を見上げ、音楽を鑑賞し、ダンスを踊る日もある。充実した人生というものを味わっているんだ。苦しい生活、辛い日々に耐えている人にも“生きる”ということを実感してほしい。
私の人生など、さほど重要ではない。未来を形成していく次世代の若者にこそ、価値がある。若者が生きやすい社会を作ることこそ、自分の使命だと考えている。誰もが、一度しか無い人生をしっかりと生きてほしい。人生って、その人にしか送れないワンダフルなものだ、ということを理解してもらいたい。
誰かが脇道に逸れたり、誤った決断をしないように勇気付けることが私の役目なのさ。幼い子がチョコレートを口に入れると微笑むだろう。そんな笑顔を引き出してやることが私に課せられていると信じている。だから、ジョージ・フォアマンの教会とユースセンターが大事なんだよ」
 最後に私は質した。あなたの現在の夢は何ですか? 
 
 「9年前に、お前さんに語った夢を今でも追いかけているよ。月で最初にシャドーボクシングをする人間になるってことさ(笑)」
 “BIG”ジョージ・フォアマン、69歳。今なお、豪傑らしく、ヒューストンの大地で生きている。

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                 撮影:著者(林壮一)

フォアマンから日本のファンへのメッセージ

Hey,This is big George foreman.
こんにちは、BIGジョージ・フォアマンです。
I know, I love you in Japan. I love you so much.
私は日本の皆さんが大好きです。
I can’t wait to get there and do some BIG things.
日本に行って何か"BIG"なことをしてみたくてたまりません。
Remember,There is nothing more important than life.
人生より大切なものはないことを、忘れないでください。
1949年1月10日、テキサス州マーシャル生まれ。生後間もなく同州のヒューストンに移り住む。1968年に開催されたメキシコ五輪のヘビー級で金メダルを獲得。翌年、プロデビューし、38勝無敗で世界ヘビー級チャンピオンとなる。が、3度目の防衛戦でモハメド・アリに敗れ、王座を失う。アリ戦後、ジミー・ヤングに2敗目を喫して引退するも、38歳にしてカムバック。そして、45歳でマイケル・モーラーを下してWBA/IBF世界ヘビー級タイトルを奪還。1997年11月22日、48歳316日でリングに上り、シャノン・ブリッグスを判定で下したが、不可解な判定で黒星を喫する。その試合を最後にリングを去った。現在もヒューストン在住。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】