ヨネクラジム、8月で閉鎖
ヨネクラジムが8月で閉鎖、82歳米倉会長の体調がすぐれず54年の歴史に幕
プロボクシングのヨネクラジム(東京・豊島区)は27日、今年8月末で同ジムを閉鎖すると発表した。
同ジムは1956年メルボルン五輪代表で、元日本フライ級王者の米倉健司氏(82)が63年に創設した。WBC世界フェザー級、WBA・WBC世界スーパーフェザー級の柴田国明、WBC世界ライト級のガッツ石松、WBC世界ライトフライ級の中島成雄、WBC・WBA世界ミニマム級の大橋秀行、WBC世界スーパーフライ級の川島郭志の国内ジムでは3位となる5人の世界王者を輩出。また東洋太平洋王者9人、日本王者31人を生んだ名門ジムだ。
だが、5月で83歳になる米倉会長の体調がすぐれず、選手の指導もままならなくなったため、一代限りでの閉鎖を決断したという。8月までに試合が決まっている所属選手もおり、今後は閉鎖までに選手の移籍などを進めるとしている。
非常に残念です…
歴史あるジムで世界王者を数多く輩出し東洋、日本王者もたくさん誕生させたまさに名門ジム。
会長は往年の名選手でスター選手も多く出してます。
オイラが川崎に来てから後楽園ホールに行った時に米倉会長のセコンドする姿を見ましたけど確かに年を取られたなって感じでした。
その時でもまぁおじいちゃんという年齢だったと思うんですがそれから20年以上の歳月がたっているんですから当然と言えば当然…
最近は世界タイトルどころか日本王者も輩出してなかったんじゃないでしょうか?
寂しい話ですが時は過ぎていきます、オイラだってもう髪の毛が真っ白でもう初老の雰囲気を醸し出してる(笑)
このブログを始めてからだって10年以上たってる(今確認した)んですから…
それでは前に書いた米倉会長のボクサーとしてのプロフィールを貼っておきます。
本名 健治、現在の表記は健司、ボクサー時代が健志だそうです。
戦績 24戦 13勝(1KO) 10敗 1分
メルボルンオリンピックに出場。
日興ジムからプロに転向、プロ初のリングは当時の世界ランカー矢尾板貞雄とのエキジビジョンマッチ。
正式なデビューは木村七郎に4ラウンド終了TKO勝ちとなる。
3戦目に矢尾板と本番10回戦を行うも判定負け。
1試合挟んで5戦目に福本篤人の持つ日本フライ級タイトルに挑戦、これに勝利し日本王者に。
再起戦は当時の日本バンタム級王者石橋広次と戦い6ラウンドノーデシションンとなる。
8戦目にパスカル・ペレスとタイトルをかけて対戦、判定負けで王座獲得ならず…
世界挑戦の時期調整のために3試合日本人相手にエキジビジョンン試合を続け、 東洋獲得から5カ月後に12戦目でホセ・ベセラの持つ世界バンタム級王座に挑戦、これも判定負けに終わる…
しかし次の試合でメキシコ選手に判定負けと調子が上がらない…(実際片目はほとんど見えなかったはず)
エキジビジョンを2つ挟んでタイ人と東洋タイトル防衛戦を行い判定勝ちで2度目の防衛。
しかし、その後メキシコ人に3連敗…
19戦目にフィリピン人と東洋タイトルを行い判定勝ちし久しぶりの勝利とともに東洋王座3度目の防衛。
21戦目にフィリピン人相手に4度目の防衛を判定でおさめ、その後ノンタイトルでフィリピン人2人に判定勝ち。
これでグローブを置くのだった…
こうしてキャリアをたどるとオリンピック代表、後一歩で初の日本人メダリストとなるようなエリートだったせいで過酷なマッチメイクが多くそのせいで黒星を増やしという印象ですな…
この時代からアマエリートには最短世界奪取を狙わせるという風潮がもうあったという事。
自分が苦労したのに米倉会長は大橋会長をキャリアの少ないうちに強豪とぶつけたりしてたけど本当に信頼してたからやったんやろうなぁ。(まぁ失敗したけど)
後、驚きなのがKOが一つというのもある意味驚きです…
マァ昔は今ほどストップもはやくないからというのもあるんやろうけど。
米倉会長のリングの虫の紹介も昔書いたんで貼っておきます
ヨネクラジム会長で元日本フライ級、東洋バンタム級王者だった米倉健司会長の自伝、「リングの虫 ボクシング一筋・45年」の紹介を。
米倉会長はヨネクラジム会長としての活躍が際立ってるけど現役時代も凄い人やった。
この本は川島郭志がまだ現役王者だったころに書かれたようですな。
当時61歳だったようやけど現役世界王者のミットを受けてたらしく現代(当時)からプロローグとして始まる。
第一章はまず生い立ちからアマ時代を。
小さいころから大きい兄貴たちにしごかれて暮らしていた米倉は自然とガキ大将となり腕っぷしも運動神経にも自身があった。
しかしチームプレイより個人競技、腕っぷしは強いが身体が小さいということで高校に入ってボクシングを始めることに。
そのままボクシングにのめり込み明治大学に進学してボクシングを続けていた。
そんな時、運命の出会いが米倉に巡りくるのだった。
大学一年生で無名の選手だった米倉が試合で負けた後に控室に日本人初の世界王者白井義男さんとその師、アルビン・カーン博士が現れたのだった!
カーン博士に教わる機会を得た米倉はボクシング技術を急激に進歩させていく。
そして頭角を現しとうとうメルボルンオリンピック代表となるのであった。
大会出場では日本人初の4位入賞も決めた。
しかし準決勝戦で微妙な判定で敗れメダル獲得はならなかったのだった…
だが、米倉は決してこの事には後悔がない、当時はメダリストがプロ転向など考えられないような時代だったのでもし獲っていたら二度の世界挑戦も5人の世界王王者も育てることはなかったのだからと。
運命というのは後から考えると上手くいってるもんなんやなぁ~
しかし、オリンピック後、米倉はオリンピック4位の栄光を汚さないようにと周りからプロ転向を反対され就職してしまう。
それを知ったカーン博士は烈火のごとく怒ったそう…
そこまでしてプロ行きを拒んだ米倉だったがサラリーマン生活は物足りなく結局一年で会社を退職、ボクシング界に戻ってくるのだった。
第二章はプロボクサー時代。
プロデビュー戦が決まるがなんと現役世界ランカーだった矢尾板貞雄とのエキジビジョン!
どれだけ期待されていたかがわかるエピソードですな。
これはエキジビジョンなんで勝敗はなかったがホープの片りんを見せることは出来たようだった。
実際のデビュー戦は現新日本木村ジムの会長木村七郎に4ラウンド終了TKO勝ち。
そして3戦目に日本フライ級タイトルで矢尾板と本番を行うのだった。
さすがにキャリアの差で敗れてしまうが善戦したよう。
減量も限界に来ていたのでバンタム級にあげる。
獲得後は日本人相手にエキジビジョンを3回行った後、世界バンタム級王者ホセ・ベセラに挑戦が決まる。
しかしベセラ戦の一ヶ月前のエキジビジョンで左目を痛めてしまっていた米倉は完調とは言えない状態だったが今のように簡単に世界戦が組まれる時代ではないために無理を押して出場、判定で敗れてしまう。
そして、当時は目の手術にも不安が多かったので手術を受けずに現役を続け25戦目にホープ、青木勝利と対戦し判定負けで東洋王座を奪われ引退した。
結局、目の怪我を引きずりながら現役を続けたため米倉は現在も左もが良くないのだ。
第三章はジム会長として。
これはジムの指導者としての自分のポリシー、考え方などを紹介、
5人の世界王者を育てた米倉会長の考え方勉強になりますな。
この本は技術書ではないのでテクニックなどではなくモノの考え方ですな。
第四章はヨネクラジムが生んだ世界チャンピオンが語るエピソード。
柴田国明は自分を米倉教の信者と語るほどに米倉会長に心酔している。
ガッツ石松はいい親分に出会ったと語ってる。
中島盛雄は世話女房のように面倒見てくれたと言ってる。
このご時世、いくら教え子とはいえそんなに親身になってくれる人なんておらんよなぁ、確かに世界王者になる可能性を秘めた若者は金の成る木だが、それ以上に米倉会長のボクシングへの情熱が垣間見えるエピソードです。
大橋会長は米倉会長は子供みたいな所があると語る。
こういう話での子供の様なとは勿論褒め言葉。
子供のように純粋にボクシング、ボクサーを愛す可愛らしい部分のある人だと。
川島郭志は会長の車に乗るのがスリリングと語る…
まぁこれはただの笑い話ですな…
米倉会長は選手としてのエピソードも会長としてのエピソードもたんまりあるのでこれはなかなか楽しめる一冊となっております!