らんぶるライフ はてな版

ボクシングの事書いてます

越本隆志

 
イメージ 1
 
イメージ 2
越本隆志
 今回はちょい前に新聞連載の記事をこのブログで紹介した越本隆志の紹介を。
 
 元WBCフェザー級チャンピオン
 戦績 43戦 39勝(17KO) 2敗 2分
 キャッチフレーズは”玄海リュウ
 
 日本の世界王者では最年長の戴冠である35歳。
 
 生後間もなく両親が離婚し父の手一つで育てられた。
 元大阪帝拳のプロボクサーだった父は、都合で2戦ほどでボクシングを辞めざるを得なくなり、ボクシングへの情熱をくすぶり続けさせていた。
 越本が中学3年生の時に父は福間ボクシングジムを起こす。
 息子である、越本は自然とボクシングをするように。
 高校生でアマチュアの試合に出場、12戦 6勝6敗の記録を残す。
 
 越本はオイラと同じ学年(ほかに辰吉、坂本、渡辺雄二などがいる)なんやけどアマ経験者の割に出て来るのが遅かった。
 アマ経験者ならオイラよりも先にデビューしてとっくに先にいってる所なのにオイラとデビュー時期はそんなに変わらないのを不思議に思ってたんやけど越本は高校卒業後にj家出をしてボクシングから離れていたらしいのだ。
 実家がジムだと本当に逃げ場がないので嫌になって逃げだしたくなるんやろうな。
 関西のホープとして活躍が期待されたJM加古川の熟山会長の息子、熟山竜一もそれが嫌で一度家を飛び出してホストをしていたらしい。
 熟山竜一は一緒に練習をしたこともあるオイラの後輩、藤原康二が言うには西岡に劣らないぐらいの天才だったそうだが、家出をして水商売の仕事をしていたら身体が完全になまり切ってしまったようで、もどってきてからの動きをは並みより少し良い程度の選手になっていたそうである。
 しかしそれでも並みよりも良いんやからホンマに天才やったんやろうなぁ~
 日本タイトルもサーシャ・バクティンみたいな本当の怪物(サーシャの動きにはバレラ、モラレス、バレロのトレーナーをしていた田中繊大さんも驚愕した)じゃなければ確実に日本タイトルは獲れたやろうし水商売に行かなければ世界戦まで行ってたのは確実だったとオイラは思ってる。
 熟山は顔もめちゃくちゃ男前でスター要素も西岡を越えるものがあったのにもったいない…
 話はそれましたが、越本は本当に腐る前に父親と和解しジムに戻るのだった。
 2戦目はドローになるが勝ち星をあげ、6戦目に映画アンチェインにも出演してる永石磨さんに判定勝ちし新人王西日本代表に、7戦目には全日本新人王に輝くのだった。
 8戦目に韓国人2ラウンドKOで下し、9戦目から15戦目まですべてフィリピン人を相手に勝利しランキングを上げていく。
 16戦目に松元好二の返上した日本フェザー級王座を玉置厚司と決定戦で争い8ラウンドKOで勝利し日本王座獲得。
 初防衛は松田ジムの中村淳一、この試合は4R,負傷引き分けに終わるが即座に再戦判定勝ちし二度目の防衛を。
 3度目の防衛戦を萩原篤に判定勝ち、ノンタイトルでフィリピン人にKO勝ちした後に、後の日本王者木村鋭景を9ラウンドで下し4度目の防衛。
 谷川拳一を判定で下し5度目の防衛。
 中村淳一との3度目の対決を7ラウンドTKOで終わらせ中村との決着をつけて6度の防衛を。
 24,25戦目はフィリピン人、韓国人をともにKOし、日本王座を返上。
 いよいよ26戦目に世界戦に乗り出す。
 挑戦が決まったのはWBAフェザー級王者フレディ・ノーウッド。
 ノーウッドは越本の挑戦を受ける前に当時無冠の帝王と恐れられていたファン・マヌエル・マルケスに判定勝ちをしている強豪である。(実際マルケスとの試合は微妙な判定だったがこの時マルケスはサウスポーのノーウッドと試合をするのにサウスポーとのスパーリングをほとんど出来ない状況だったと当時ロマンサジムで練習していた日本人ボクサーに聞きました)
 九州初の世界王者を誕生させるために父である会長は色々動きこの挑戦を実現させるのだが、相手があまりにも悪かった。
 ノーウッドはきちんと体重を作らないようなルーズなボクサーだがその実力、才能は関係者の中でもかなり評価されていた実力者だったのだ。
 その風貌からリトル・ハグラー(剃髪だから)と呼ばれる強豪になすすべもなく9ラウンドTKOで敗れる越本。
 しかし、親子はめげない
 再起後は韓国、フィリピン、タイのボクサーと調整試合を組んで調子をあげ31戦目にインドネシア人とOPBFフェザー級王座決定戦を争い判定勝利で東洋王者に。
 初防衛はタイのセーンシ・ポーチュワタナを判定、2度の目の防衛は日本タイトルで一度下している木村鋭景と再戦し判定勝ち、ジェフリー・オニャテ、ハイメ・バルセロナを判定で下し3,4度目の防衛。
 5度目の防衛は初防衛の相手をKOで返り討ち。
 二戦ノンタイトルをタイ人とこなした後、6度目の防衛戦を韓国人に判定勝ち、7度目は3度目の相手をこれまたKOで返り討ちにし防衛。
 この後タイ人とノンタイトルをして王座返上、42戦目で二度目の世界タイトルを実現させる。
 相手は池仁珍(チ・インジン)、日本人キラー、ジェス・マーカを下して東洋王座を獲得しエリック”テリブル”モラレスに挑戦し判定まで粘る善戦をした後、英国でマイケル・ブロディと部の良い引き分けの後の再戦で判定勝ちしWBC王座を獲得し洲鎌栄一、トミー・ブラウンを下して2度の防衛をしている強豪である。
 この試合は2-1ながら越本の手が挙げられ日本人最高齢での世界王座戴冠の記録、九州のジムからの初の世界王者等の記録が作られた。
 そして、初防衛は格下と思われたルディ・ロペスに右肩の負傷もあり7ラウンドTKOで敗れ、引退。
 父はジムを息子に引き継がせ親子鷹の闘いは幕を閉じるのであった…