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高山勝成は中学時代にボクシングと出会い、世界を目指した


 林壮一さんの書いた、高山勝成選手の記事第二弾です!

【特集・第2回】高山勝成は中学時代にボクシングと出会い、世界を目指した

ボクサー・高山勝成WBCWBA暫定、IBFWBOと主要4団体のミニマム級タイトルを獲得した。日本人として初めて主要4団体のタイトルを獲得した彼はいつボクシングを始め、世界を目指すようになったのだろうか。全4回の第2回。

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高山勝成がボクシングと出会ったのは、中学2年生の時だった。中学1年次は陸上部に在籍し、1500mや3000mの選手だった。中2になると陸上部を辞め、ラグビー部に転部する。ラグビー部の仲間の一人がボクシングジムに通っていたからだ。「中2の7月でした。僕よりも1カ月早くボクシングを始めていたラグビー部の友達に、『勝成、ボクシングしねえか?』と誘われたんです。「あぁボクシングか。格好いいなぁ」って、ジムに通うことにしました。
中学時代はラグビーとボクシングを両立していましたよ。ラグビーの朝練と夕練が終わって、ちょっと休憩してからボクシングジムに行きました。ラグビーはFWの2番フッカーでした。当時はラグビーもボクシングも両方楽しかったです。ラグビーの練習をしてヘトヘトでしたが、何とかジムに通えていたのは、単に好きだったからでしょうね」
が、高山はある敗戦をきっかけにラグビーに別れを告げる。
「3年生最後の公式戦で、僕らの中学は地区大会の1位か2位になれる筈だったのに、自分のミスで4位になってしまったんです。確か1点差か、2点差での負けでした。試合終了の笛が鳴って、チームメイトの皆が泣いていたんですね。子供ながらに『自分のミスで大変なことをしてしまった』と痛感しました。その時、団体スポーツの怖さを味わったんです。これは、自分にはダメだなと……」
ほどなく、高山はプロボクサーになることを決める。高校進学も考えなかった。
「中3で進路を決める時期になり、『ボクサー一本で行く』と周囲に告げると、ジムの会長やトレーナー、担任の先生、校長先生と、皆さんから『高校に進学してからプロボクサーになってもいいだろう。高校に行ったってボクシングは続けられるよ』と説かれました。でも僕は、プロを目指すなら、ボクシング1本でなければ自分には無理だと考えたんです。高校生活が楽しくなって、ボクシングが疎かになるのが怖かったんですよ。自分なりに決意を持って、進学せずに17歳でプロになって飯を食っていく、と決めました」
高山勝成は、中学校卒業の1週間後から近所のガソリンスタンド、焼肉屋、100円パーキングの誘導員などのアルバイトを掛け持ちし、世界チャンピオンを目指した。17歳でプロデビュー。7戦全勝で全日本ライトフライ級新人王となり、10戦目で元WBAミニマム級暫定王者、ソンクラーム・ポーパオインを判定で下して世界ランキング入りを果たす。
「新人王を獲った翌年でした。ジムとしては“冒険マッチ”として、ポーパオイン戦を組んだんです。当時僕は、日本ライトフライ級の8位くらいでした。ポーパオインはWBAミニマム級5位です。ポーパオインは、レフェリーが見ていないところで足を踏んできたり、パンチを打つとみせかけてヒジ打ちをしたり、頭突きもしたりと、とにかく汚かったです。『世界には、こんなことをやる選手がいるんだ』と思い知らされました。また、僕のパンチが効いたかように、“死んだフリ”の演技をするんですよ。それが一番堪えました。効いたと思って飛び込んだら、カウンターを合わせて来て。『このパンチをもらったら倒れてしまう』と感じましたね。でも、僕のフックでダウンを奪い、勝つことができました。WBA世界ミニマム級5位にもなれたんです」
だが、世界ランカーとなった高山は、次の試合で日本ライトフライ級王者、畠山昌人にKO負けを喫する。
「知らず知らずのうちに天狗になっていました。自惚れてはダメだと自分に言い聞かせていたのですが、新人王になり、世界ランカーにも勝利して世界5位となった。毎朝6時に起きて1時間くらいロードワークすることを自分に課していたのに、8時頃に起きて20~30分ちょろっと走って、バイトに行った日もあります。どこかで驕りがあったのです。24時間プロボクサーという生活はしていませんでした。そこから反省して、もう一度自分をきちんとボクシングに向かうようになりました」