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村田諒太 - 闘いを終えて


 林壮一さんの記事です。

村田諒太 - 闘いを終えて:第1回】ミドル級(72.5kg) ~日本では重量級とされる160パウンドの高い壁~

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現地時間10月20日村田諒太WBAミドル級タイトルを失った。試合はワンサイドの展開となった。0-3(109-119が2名、110-118が1名)の判定負けだった。新チャンピオンとなったロブ・ブラントは、綿密に村田攻略プランを立て、徹底的にそれを遂行した。村田の王座陥落を振り返る。【村田諒太 - 闘いを終えて:第1回】


【1】ミドル級(72.5kg) ~日本では重量級とされる160パウンドの高い壁~

ミドルという言葉を辞書で引くと「中間の」「中央の」「中くらい」のといった文字が並ぶ。本来、中くらいの体系のボクサーが鎬を削るクラスがミドル級である。“中くらい”の体躯は、それだけ人口が多く、層が厚い。

しかしながら、それは世界における話であり、日本ボクシング界において、ミドル級とは最重量級である。昨今、ヘビー級ファイターの存在も見られるが、客の前で試合をする力量は無い。実際のところ日本ランキングもスーパーウエルター級より上は10名に及ばない。日本におけるミドル級は、かなりレベルの低いものとなる。1995年12月19日、日本人初のミドル級世界王者が誕生した。竹原慎二がアルゼンチンのホルヘ・カストロを判定で下し、WBA王座に就いたのだ。竹原は傑出したミドル級であり、新人王、日本タイトル、東洋太平洋タイトルを経てのベルト奪取であった。しかも、プロキャリアで1度も倒れたことのなかったカストロから、ボディブローでダウンを奪っての勝利だった。この時、村田諒太は9歳。小学4年生で、まだボクシングとは出会っていない。中学時代に多少、齧ったものの、本格的にグローブを握ったのは南京都高校に進学してからだ。高校時代は5冠を達成。3年次では同世代に敵がおらず、大学生や社会人に混じって全日本選手権に出場した。優勝は逃したものの、決勝まで勝ち残っている。村田は、竹原以来の逸材であった。2012年のロンドン五輪で金メダリストとなり、その後プロに転向。アッサン・エンダムと2度タイトルを争い、2017年10月22日にエンダムを7回終了TKOで下してWBAミドル級チャンピオンとなったことは記憶に新しい。竹原が初防衛戦で王座陥落してから村田が同じベルトを腰に巻くまでに、およそ21年が経過していた。それ程、日本人の160パウンド(72.5kg)で世界に通じる男は、現れ難いのである。一方で、今回村田からベルトを奪ったロブ・ブラントが育ったアメリカ合衆国には、ミドル級の実力者がゴロゴロいる。世界3位でありながらも、ブラントは無名選手に過ぎなかった。1922年に創刊されたボクシング雑誌の老舗である『RING』のニック・スコック記者でさえ、「名前しか知らない選手」とブラントを切り捨てていた。村田諒太vs.ロブ・ブラント戦の記者席は、8割以上が日本メディアであり、全米中から注目されるファイトとは言い難かった。


【2】米ボクシング名門誌『RING』の記者は、村田vs.ブラント戦をどう見ていたか?

試合の数日前、スコックは語った。「今のボクシング界の問題は、タイトルが沢山あり過ぎることだね。特にWBAは同じ団体、同じ階級の中に2~3のタイトルが存する。RING Magazineとしても、最強の値であるスーパータイトルは評価するけれど、村田が持つ正規王座はそこまでじゃない。やはりGGGゲンナジー・ゴロフキンの愛称)やサウル・“カネロ”・アルバレスに比べたら、世界における村田諒太の認知度は低い。日本では“チャンピオン村田”ということで人気があるし、知名度もあるけれど、アメリカでレギュラーチャンピオン(正規王座)は知られていないのが実情。やはりスーパーチャンピオンになって初めてファンにも認められる。確かに現時点での村田諒太はNO NAMEといった存在だが、TOP RANK社と契約しているし、今回がラスベガスでの3度目のファイトだよね。ボクシング関係者たちにしてみれば日本のBIG STARだという認識はある。今、価値が上がっているところでしょう。今回の指名挑戦者との試合に勝てば、よりメジャーになるよ。ただ残念なことに、同じ10月20日にボストンでもボクシングの興行があるんだ。ビリージョー・サンダースが薬物で引っかかって、WBOミドル級王座が空位になったでしょう。その影響で、空位となったWBOミドル級王座の決定戦と、IBFスーパーフェザー級タイトル戦がTD Gardenで催される。主要メディアはそっちに行くだろうね。RING Magazineの先輩記者もボストンに行くよ。どっちのベルトが大きいか?ってことさ。村田の挑戦者、ロブ・ブラントも無名。ここで村田がいい内容──KOで勝てば、160パウンドで5本の指に入るだろう。米国のボクシングメディアの多くは、近い将来、村田vs. GGG戦を予測している。今、GGGは、無冠だ。TOP RANKのボスであるボブ・アラムがやりたがっているし、GGGのメインプロモーターであるトム・ラフラーも両者の東京での激突に興味を示している。トムはGGGのオプションを持っているから、最重要人物だよ。GGGがカネロとの第3戦を迎える前に、村田とやるんじゃないかな。WBAのオフィシャルなタイトルマッチになるかどうかは今のところ分からないけれどね。WBAとの話し合いになるでしょう。GGGと村田の試合は1月か2月に東京で組まれると思うよ。GGGのトレーナーは5月まで休息と言っているけどさ。村田は今だって間違いなく160パウンドのTOP10には入っているさ。日本人ファイターが次のステージを狙っているという意味でも、村田は大きな存在だね。ミドル級のBIGマッチが組まれることは、業界にとってもプラスだよ。GGG、カネロ、ジェイコブス、村田、なんかが絡むのは面白いよね。そのためにも、村田はブラントをKOしなきゃ。カネロ、ビリージョー・サンダースと、最近ドーピングをする選手が多いね。ボクシングのクリーン化は大事だ。カネロが昨年の9月にGGGに挑み、引き分けた後に禁止薬物の使用が発覚した件も物議を醸したものね。その点、村田は正統派のチャンピオンだよ」


 

村田諒太 - 闘いを終えて:第3回】スパーリングパートナー・マルティネスが語る村田諒太

村田のスパーリングパートナー、スティーブ・マルティネス(戦績:18勝(13KO)4敗)をインタビューした。身長は、村田と同じ182センチ。クラスは1階級軽いスーパーウエルター級である。まずは、人となりを御紹介しよう。
「俺はプエルトリコで生まれ、1歳になる前にアメリカ本土のニューヨークに家族で移り住んだ。ブロンクスの“ゲットー”って呼ばれる地域で育った。父はスタジオカメラマン、母はニューヨーク市の税務局に勤務していたけれど、生活は楽じゃなかった。2人の兄に、弟と妹が1人ずつっていう大家族だった。近所には、プエルトリカンが沢山住んでいた。
プエルトリコはボクシングが盛んだろう。俺が小学生だった頃は、フェリックス・TITO・トリニダード(元WBCIBFウエルター、WBAIBFスーパーウエルター、WBAミドル級チャンピオン)の全盛期でさ、家族だけじゃなく、叔父や従弟ら皆で集まってPPVを見ていたんだよ。我が家に集まって、パーティーみたいな感じでさ。
で、自分も12歳の頃、警察のジムでボクシングを始めた。アマで120戦している。86勝して、2007年から3年連続でニューヨーク州のゴールデングローブ王者になったんだ。2008年は、ナショナルゴールデングローブのチャンピオンにもなった。五輪強化選手に選ばれたんだけど、2012年のロンドン五輪まで4年も待てなくてさ、それで19歳でプロデビューしたんだ。俺が17歳の時、息子が生まれたので、生活費を稼がなきゃならなかったんだ。
キャリア初期の頃は、俺も村田と同じTOP RANK社とプロモート契約をしていた。でも、ボブ・アラムCEOにあまり気に入ってもらえなくて…契約を解除された。村田vs.ブラント戦は、ESPN(スポーツ専用チャンネル)で放送されるけれど、俺もESPNで全米に放送された試合で、1-2の判定負けをしちゃってさ。
2013年はプロモーターやマネージャーから声が掛からなくて、1年強のブランクを作った。だから、配管工となるために学校に通ったよ。ボクシングだけじゃ食えないと悟ったからさ。けれど今は、元統一ヘビー級王者のイベンダー・ホリフィールドが興したプロモーション会社と契約しているから、11月の頭くらいには次の試合が決まるように思う」
肝心の村田については次のように話した。
「俺が村田のスパーリングパートナーを務めたのは、今回が2度目なんだ。アッサン・エンダムとの初戦の前に日本に呼んでもらった。村田については五輪の金メダリストということくらいしか知らなかったけれど、いい選手だと思ったね。非常にハングリーな選手だなという印象を持った。
日本ではボクシング界のスーパースターで国民的英雄と表現できる男だよね。でも、アメリカでは全く知られていない。今回のブラント戦が実質的なアメリカデビューになるよ。物凄く大きなチャンスだし、本物のスターになる入り口の試合だ。勝てば、誰もが村田の存在をトップミドルとして認識するさ。
ブラントは言葉を交わしたことも、スパーをやったことも無いけれど、アマチュア時代もプロに入ってからも、生で試合を見たことがある。村田にとって簡単な相手じゃない。ブラントも実力者だよ。
接戦になるだろうな。でも、最終的には村田が勝つように思う。チャンピオンになってから、村田はより賢いボクシングをするようになった。彼は右のパンチが強い選手だけれど、離れたり、接近したり、スピードに強弱を付けたり、多彩になった。ディフェンスもジャブもいい。あの右をどこで爆発させるかだよね。
チャンピオンとなって、気持ちに余裕が出たのか、今回は会話する時間も多いかった。だからこちらも『もっとジャブを多く出した方が、右が活きるよ』って伝えておいた。いつもボクシングを学んでいるよね。次のレベルに行く為に努力していることが分かる」
敗戦後、マルティネスは話した。
「村田はブラントのスピードに対応できなかった。それによってゲームプランが狂ったことが全てだね。本人が決めることだけれども、今回負けたからと言って、引退を考える必要はないと思う。
ただ、毎朝早く起床してロードワークをしたり、日々、ハードなトレーニングを積むことに意欲を持てるかどうか、だね。 村田は、俺も含めたほとんどのボクサーが成し遂げられない----世界タイトルを獲得し、ミリオンダラーを稼ぐ----ってことを、既に手にしているし、温かい家庭も築いている。
今後、村田がタイトル奪還を目指すのであれば、これまで以上の努力が必要になる。それは、けっして生易しい道じゃない。現在の彼が、そういう気持ちになれるかどうかに掛かっているよ。自分の印象では、現役続行するような気がするけど…本人の決意次第だよね」


村田諒太 - 闘いを終えて:最終回】200年に一人の天才ボクサーが語る、村田諒太V2戦
 

【4】200年に一人の天才・亀田昭雄が見た村田V2戦
「驚くほどワンサイドの内容でした。村田は攻撃のバリエーションが無く、動きが単調で、ワンパターン過ぎました。もったいないな、と思いながら見ていました。
村田のボクシングは、プレッシャーの激しさと右の強さ、そして固いガードですよね。プレッシャーっていうのは、相手をコーナーやロープに詰めることを意味します。前に出るだけでは、プレッシャーにはなりません。これまでの村田は、対戦相手にロープを背負わせていました。それが、ブラントには通じなかった。
ブラントは村田を研究して、常に先に手を出し、プレッシャーをかけられない、右も食わないポジションに身を置いていたんです。ブラントは上手かった。無名選手ながら、こんなにボクシングを知っているのか、と改めてミドル級の層の厚さを感じました。無論、村田は日本のミドル級としては、何十年かに一人の素材です。でも、例えばインターハイのミドル級と言っても、1回戦が準決勝みたいなものなんです。好敵手の存在も見当たらないまま頂点に登れてしまったんですね」
亀田もまた、インターハイ王者、全日本アマチュア王者となった後にプロに転向した男である。モントリオール五輪の前年に催されたプレ・オリンピックでは銀メダルも獲得した。その亀田は言う。
「村田はもっとウィービングを使うべきでした。ウィービングでパンチを躱した時って、すぐに自分の手が出るんですよ。ガードだけのディフェンスだと、相手が止まってから攻撃する形になってしまいます。ボクシングというのは、よけたら直ぐに自分のパンチを出さねばならない。ブラントの手が止まらなかったのは、ウィービングで躱していたからです。ブラントは村田と違ってパンチ力のある選手ではありません。だから軽いパンチをポンポンと連続で出せるんですね。フルスイングしていないから、スタミナも持つんです。敢えて言えばアマチュアスタイルで見せるボクシングではない。村田は倒しに行く“客を呼べるボクシング”をして来たんですがね」
亀田は1982年7月4日に指名挑戦者として、当時のパウンド・フォー・パウンド、アーロン・プライアーの持つWBAジュニアウエルター級タイトルに挑み、6回KOで敗れた。場所は、プライアーの故郷、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティーであった。
村田諒太はまだまだ限界ではないですよ。頭のいいボクサーですから、今回の敗戦から多くを学んだでしょう。プレッシャーをかけるにしても、前に前にではなく、サイドステップを使いながら相手を追い込んでいくことが必要です。パンチ力のある村田が手数で相手を圧倒しようとしたら、その良さが消えてしまうことが考えられます。ですから、全部強いパンチを打つのではなく、強弱を取り入れたコンビネーションも覚えるといい。パンチの強い選手は、どうしてもすべてのパンチをフルスイングする傾向にありますが、肩のスナップを利かせた連打がほしいですね。腰と一緒に肩を回すことを覚えれば、何発でも連打できますから。
それと、今回の第5ラウンドのようなチャンスが訪れたら、一気に相手を叩き潰すラッシュも必要です。1981年9月16日に行われたWBA/WBC統一ウエルター級タイトルマッチで、ポイントでリードされていたシュガー・レイ・レナードが、第14ラウンドに捨て身のラッシュでトーマス・ハーンズをKOしたでしょう。あの時のレナードは、なりふり構わず20連発、30連発とパンチを出した。それ以外に活路が見出せなかったからです。村田も行くべき時にラッシュをかけるようになれば、幅が広がりますよ」
亀田はこう結んだ。
「プロモーターのボブ・アラムがリターンマッチを組むと発言したんですよね。ブラントは今回勝っていますから、同じスタイルで戦うでしょう。だから村田はそこを逆手に取ればいいのです。僕はリベンジを果たせる可能性が大いにあると思っていますよ」
10月20日、確かに村田は完敗した。が、Life goes on。人生の戦いは続く。彼がどんな決断を下すのか、今はただ、見守りたい。

 みんな、村田選手の復活を願ってると思うんですが、これからの闘いはこれまで以上に厳しいものとなるので簡単に復帰すればよいとは言えませんがやっぱり復帰してほしいですなぁ~~~







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                       タイのリングでハチャメチャ修行