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ジョージ・フォアマンの甥っ子ジョナサン・フアマンレポート


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 林壮一さんの記事です、ジョージ・フォアマンの甥っ子、ジョナサン・フォアマンについて書かれています。
 ちなみにジョージ・フォアマンの息子は全員、ジョージ・フォアマンという名前です(笑)

【第1回】伝説の男から受け継いだバトン ~“伝説の男”ジョージ・フォアマンとは?


ジョナサン・フォアマンは、ボクシングヘビー級の4回戦ボーイである。目下の戦績は、4戦全勝4KO。あのジョージ・フォアマンの甥だ。間もなく30歳となるグリーンボーイを彼の故郷、テキサス州ヒューストンでインタビューした。その話をする前に、彼の叔父ジョージ・フォアマンの足跡について語っておく必要があるだろう。【フォアマン特集・第1回】

ジムには3分計のブザー、29歳の新人選手の呼吸、そしてシャドウボクシングでパンチが風を切る音が聞こえていた。音はするのだが、ふっと静寂に包まれたりもする。どこか神聖な空間だ。

そこはテキサス州ヒューストン、ローンオーク・ストリートの一角にある、元世界ヘビー級チャンピオンが建てたユースセンター内のボクシングジムだ。そのチャンピオンの名は、ジョージ・フォアマン(以降、フォアマン)という。
ジョージ・フォアマンの足跡~
1949年1月10日に産声を上げたフォアマンは、ローンオーク・ストリートから高速道路を北に飛ばして20分ほどの地で育った。フォアマン本人は、この表現を嫌うが、いわゆる“ゲットー”と呼ばれる地区である。
10代のフォアマンは中学校を“中退”し、ストリートで恐喝を繰り返していた。父親は家に寄り付かなかった。コックとして働く母親の稼ぎでは、7人の子供に十分な食事を与えることはできなかった。いつも腹を空かせていたフォアマンは、大人から金を巻き上げては、何とか胃袋を満たした。
そんなある日、いつものように金を得たフォアマンに危機が訪れる。被害者が警察に通報したのだ。フォアマンは追っ手から逃げながらも、不安になる。
「もし、警察犬を放たれたらヤバい」
そして、自身の臭いを消そうと、近くにあった水溜りを転げ回る。何とかその場をやり過ごしたフォアマンだったが、激しい虚無感に打ちのめされる。
「自分たちのために身を粉にして働き、『いつも誠実に生きなさい』と話す母を裏切ってしまった。俺は一体、何をやっているのだろう」
とはいえ、若きフォアマンはどう生きていいのか分からなかった。やはり、拳を武器に、暴力で自分の存在を確かめるしか無かった。
その数ヵ月後、フォアマンは偶然TVに映っていたコマーシャルに目を奪われる。当時のアメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンによる貧民救済プロジェクト、「職業訓練校(Job Corps=雇用隊)」への入隊を募るものであった。
ブラウン管の中から、NFLのスター選手が微笑みかけていた。
「君にもセカンド・チャンスがある!」
その言葉は、フォアマンの耳に木霊(こだま)した。フォアマンは同部隊へ参加を決め、16歳にして親元を離れる。3度の食事が用意され、規律を学び、学業もやり直すことができた。さらには、ボクシングとの出会いがあった。部隊内にジムがあり、この競技を教えるエキスパートもいた。
グローブをはめてから、3年足らずでフォアマンはメキシコ五輪(1968年開催)の金メダリストとなる。19歳でアマチュアのキングとなった日について、フォアマンはこう語る。
「私のボクシングキャリアのなかで、最大の喜びを感じた瞬間だった。将来が見えず、犯罪に手を染めていた若者が、セカンド・チャンスを掴んだのだから。同時に、私の人生を照らしてくれたアメリカ合衆国とは、なんて素敵な国なんだろうと、愛国心を持ったね」

第2回】ジョナサン・フォアマンの叔父ジョージと2人の伝説のライバルたち

若き4回戦ボーイがたった一人で練習するジムには、“豪傑”ジョージ・フォアマンの足跡が塗りこまれていた。 ──プロ転向からジョー・フレージャーから奪ったWBA/WBC世界ヘビー級タイトル。モハメド・アリとの死闘。王座転落により粉々になった自信──彼の甥ジョナサンが汗を流すジムは、否応なしにフォアマンの歴史を感じさせる空間だ。【フォアマン特集・第2回】

ジョナサン・フォアマンは、シャドウボクシングを終えると、グローブをはめ、サンドバッグを叩き始めた。かつて、偉大なる叔父がトレーニングを重ねたのもこの場所だ。ジムの壁から、ジョージ・フォアマン(以後、フォアマン)の歴史が伝わって来る。
サンドバッグを吊るしてあるエリアの壁には、フォアマン、モハメド・アリジョー・フレージャーと3名の大きなイラストが飾られていた。アリは1960年のローマ五輪で、フレージャーは1964年の東京五輪で、そしてジョージ・フォアマンは1968年のメキシコ五輪で金メダルを獲得し、それぞれがプロでも世界ヘビー級チャンピオンとなった。フォアマンは「我々3人はセットなんだ」と話すが、彼らはプロの舞台で、リーグ戦のように拳を交えている。
~フォアマンと2人のライバル~
アリとフレージャーは3度対戦し、アリの2勝1敗。アリとフォアマンは、アリの1勝0敗。フレージャーとフォアマンは、フォアマンの2勝0敗。その2人のライバルを敬い、フォアマンは自身が建てたユースセンターに、「モハメド・アリ・ビルディング」「ジョー・フレージャー・ビルディング」を設けていた。甥のジョナサンが汗を流すボクシングジムは、ジョー・フレージャー・ビルディング内にあった。
メキシコ五輪後、プロに転向したフォアマンは37戦全勝34KOの戦績でフレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦する。1973年1月のことである。迎え撃ったフレージャーは、29戦全勝25KOであった。KOは逃したものの、29勝のなかには、モハメド・アリを判定で下した白星も含まれていた。
白熱の展開が予想されたものの、フォアマンはフレージャーから6度のダウンを奪い、第2ラウンドで試合を終わらせる。“ライバル”と呼ぶには、あまりにもワンサイドの内容であったため、フレージャーについてフォアマンに質したことがある。フォアマンは鋭い目をしながら答えた。
「試合開始早々、フレージャーの左フックが私の頬をかすめたんだ。重いパンチだった。こんなのを食らったら危ない、早めに勝負に出なくては、と思ったよ」
試合開始のゴング前に向き合った際も、フォアマンは恐怖で足の震えが止まらなかった。フレージャーに、それを悟られまいと気にしたという。
「フレージャーには“スモーキン(蒸気機関車)”というにニックネームが付けられていたように、前進あるのみ、というスタイルだった。まるで、下がるという言葉を知らないかのようなアグレッシブさだったよ。私は彼に勝ったが、今でも最もタフな相手だったと感じている」
その後もフォアマンは危な気なく2度の防衛に成功し、1974年10月30日、ザイールのキンシャサで3人目の挑戦者としてモハメド・アリを迎えるのだ。
「直近の8試合で、私は第3ラウンド開始のゴングを聞いていなかった。それまでの相手同様、2ラウンドまでに、まぁ長引いても3ラウンドまでには仕留められると思っていた」
40戦全勝37KOの25歳のチャンピオンに対し、当時のアリは32歳。しかも、フレージャー戦を含めて2つの黒星を喫していた。“もはやアリはピークを過ぎた”と囁かれていた。
しかし、フォアマンは自慢の強打を空転させられ、スタミナを失っていく。アリはロープを背負い、決定打は食らわずにディフェンスしながら、フォアマンを消耗させる作戦に出たのだ。そして第8ラウンド、アリは右のトリプルをヒットさせ、体を入れ替えながら、ダブルのワンツーをヒット。フォアマンをキャンバスに沈めたのだった。
フォアマンは振り返る。
「あの敗戦は私を粉々に打ち砕いた……自分は、生きる価値の無い男なんだ……。そんな風にしか考えられなくなってしまった」
フォアマンはこの敗戦で15カ月間のブランクを作った。苦しみ抜いて、ひとつの答えに辿り着く。
「あの日のアリにあって私に無かったものは、経験だということが分かった。すなわちキャリアの差が明暗を分けたんだね。私はアリ戦で、経験とゲームプランの重要性を学んだ。アリ戦の前まで、私にとって勝利=KO勝ちだった。相手を倒して勝つことが重要だと信じて疑わなかった。でも、アリからはたとえ判定でも勝利することが大事だ、と教えられた。力任せにKOを狙うことよりも、ゲームプランを立て、勝利を上げることを意識するようになった」


 【第3回】ジョナサン・フォアマンが追う、“生きた伝説”となった叔父のジョージの背中

ジョナサン・フォアマンの叔父であるジョージ・フォアマンは、モハメド・アリとの試合後、伏兵に敗れリングを去った。が、10年のブランクの後にカムバック。45歳で世界ヘビー級王座に返り咲いた。それは彼にしか出来ない離れ業だった。【フォアマン特集・第3回】は、1987年以降の“闘う牧師”から“生きた伝説”となったフォアマンの生き様に迫る。
~人生最大の挫折から、45歳での世界王者への道のり~
ジョナサン・フォアマンが生まれる約11年前の1977年3月17日、叔父のジョージ・フォアマン(以降、フォアマン)は、当時モハメド・アリとのリターンマッチを見据える中で、格下選手のジミー・ヤングに12ラウンド、フルに闘い、判定負けする。またしてもスタミナを失っての敗北だった。
この試合後、フォアマンはドレッシングルームで神の啓示を聞いたと語り、リングを離れてキリストの教えを伝えることを生業とする。教会を築き、さらには、かつての自分のような若者を支えようとユースセンターで問題児たちと触れ合いながら、故郷のために献身的に働き続けた。
しかし、会計士に横領され、昔の恋人に訴訟を起こされたりと、金が回らなくなってしまう。そこで稼ぐためにと、1987年3月、37歳にしてカムバックを決めるのだ。
「教会とユースセンターを維持するために決めたリング復帰だった。私を望んでいる人のために、闘おうと思った。体はどこも痛んでいなかったし、自信があったよ」
嘲笑する声も少なからずあったが、フォアマンは“闘う牧師”として24戦全勝23KOを飾り、1991年4月、42歳にして統一世界ヘビー級王者、イベンダー・ホリフィールドに挑む。同ファイトでは28歳の若者に一歩も引かず、12回判定で敗れるが、そのスピリッツは全米中を感動の渦に包み込んだ。
その感動はそこでは終わらなかった。1994年11月5日、45歳のフォアマンは、ホリフィールドを下して新チャンピオンとなったマイケル・モーラーに挑戦。第10ラウンドに右ストレート1発で、26歳のモーラーをキャンバスに這わせ、世界ヘビー級タイトルを奪還する。
メキシコオリンピック以来の感動を味わったね。私だけでなく、周囲の人々にとっても、価値のある勝利だった」
KO勝ちした後、フォアマンはコーナーポストの前でひざまずき、神に祈りを捧げた。セコンドには、実弟のロイ・フォアマンの姿もあった。ロイは言う。
「いや~もう、感動で体の震えが止まらなかったよ」
こうしてフォアマンは、“生きた伝説”として語られるようになるが、派手な生活を好むこともなく、自身の成功を地元ヒューストンに還元する姿勢を貫く。学校や家庭でトラブルを抱える子供が、フォアマンの顔を見にユースセンターを訪れ、フォアマンは彼らを笑顔で迎えた。ヒューストンは、数年に一度ハリケーンの直撃を受ける災害エリアでもあるため、その度にフォアマンはユースセンターを避難所として開放。困り果てた人々に食事の手配をし、あるいは寄付をしたりと、地道な活動を続けている。
フォアマンが37歳でカムバックしてから2度目の引退までの期間を寄り添った弟のロイは、現在、ボクシングのプロモーターとして活動する。そのロイの次男が、フォアマンのジムで練習する新人プロボクサーのジョナサンである。
フォアマンの甥っ子ジョナサンはオーソドックス・スタイルだが、時にサウスポーにスイッチしながらサンドバッグを叩き続けた。一発一発力を込め、サンドバッグに拳を埋め込むかのように。身長192cmの叔父に比べ、178cmとジョナサンは短躯である。左右のフックが得意だという。次回、いよいよジョナサンに話を聞く。

【最終回】ジョージ・フォアマンの甥という“宿命”を背負ったジョナサンが語る「自分の道」

大過ぎる国民的ヒーローの叔父ジョージ・フォアマンと同じ道を歩むジョナサン。ボクシングを始めたきっかけは「痩せるため」だった。そんな彼が感じている“フォアマンの血”とは。フォアマンというファミリーネームを背負う以上、恥ずかしいファイトは出来ない。勝利のために、汗を流すジョナサンの今を聞く。【フォアマン特集・最終回】

~伝説のフォアマンの甥として生まれた男ジョナサン~
サンドバッグを合計12ラウンド打った後、ジョナサン・フォアマンはシングルボールを叩き始めた。ボクシングの練習において、最も大きな音を奏でるのがシングルボールである。リズミカルに4ラウンドこなし、ジョナサンはバンテージをはずした。
ジョナサンが生を享けたのは1988年9月19日のことだ。当時39歳の叔父ジョージ・フォアマンは復活ロードを歩み始めており、34歳だった父のロイは、そのジョージのサポートに専念していた。
幼い頃、父ロイと離れていたジョナサンは、フットボールを親しみ、大学で心理学を専攻する。が、通っていたのは私立大学であったため、授業料が高く、休学して米海軍に入隊した。
「僕が11歳の時、両親が離婚したんです。5つ上の兄貴もそうだったけれど、一緒に生活していた母親に負担を掛けたくなかったから、学費は自分でやりくりしました。妹もいたし……。それで海軍に入ったんだけれど、色々とストレスが多かったんです。暴飲暴食で憂さを晴らす毎日でした。4年ほど海軍で過ごしましたが、除隊した頃は、体重が300パウンド(約136kg)になっていました。
公立の大学に入りなおして、今度は経営を学びました。その一方で、身体を引き締めたくてボクシングジムに通うことにしたんです。どうせなら叔父のジムがいいなと思って、ここに来ることに決めたんです」
当時、フォアマンの息子のひとりであるモンクことジョージ・フォアマン3世がプロで闘っており、よく一緒に練習した。
「1年半ほど練習して、アマチュアの試合に出場したんだけど負けちゃって。悔しくて、練習量を増やしました。2戦目は勝ったけれど、3戦目でまた敗北。その後4連勝したので、プロでやってみたくなりました」
その思いを告げた折、父ロイは「しっかりガードしろよ」とアドバイスした。元世界王者の叔父ジョージは「ハードに練習しろ」と一言だけいったという。
「2017年に大学を卒業し、今は害虫処理の会社に勤めています。8時から18時までの勤務です。出勤前に5マイル(約8km)くらいロードワークして、仕事の後に週に6回ジムワークです。プロでは今のところ、4戦して全勝。すべてKO勝ちを収めています。チャンピオンを目指して努力する日々です。仕事が休みの土曜日は、走る距離を8マイル(約12.8km)に延ばしています。ボクシング中心の毎日です。とても充実していますよ」
ジョナサンは叔父の試合を一ファンとして見ていた。今でもDVD等で頻繁に目にするそうだ。
「僕はボクシングから、メンタルコントロールを学びました。ジョージの試合を見ていても、アリ戦とモーラー戦では、明らかに精神力の向上を感じます。それは人間として大切なことだと思うんですよ。
僕には叔父のように恵まれた体はありません。ヘビー級としては小さい。ですから、マイク・タイソンのようなスタイルで上を目指します。“ジョージ・フォアマンの甥”ではなく、ジョナサン・フォアマンの名をファンに覚えてもらいたいですね」
ジョナサンは非常に教養のある英語を話した。彼がボクシングを通じて人間力を高めているのは間違いない。ただ、ジョージ・フォアマンの息子モンクは17戦全勝のレコードで現役生活を終え、タイトル挑戦には届かなかった。果たして甥のジョナサンは、どこまではい上れるだろうか。
ジョージ・フォアマンが何年も使用したリングで、この日はジョナサンが汗を流していた。叔父ジョージの汗をたっぷり吸い込んだキャンバスに、独自の考えで上を目指すジョナサンの汗が滴り落ちた。“生きた伝説”ジョージ・フォアマンのスピリッツは、次世代に確実に継承されている。

 ライバルの話で、ありとフレジャーについて書かれてますが自分としてはここにケン・ノートンも入れてあげたいんですよね…
 80年代の4強の影響で4人でひとまとめにしたい志向があるんで(笑)
 ただ、アリ、フォアマン、フレジャー、ノートンではフレジャーとノートンはマネージャーが同じなので闘ってません。
 最近の4強と言えばパッキャオ、バレラ、モラレス、マルケスですがこれまたマルケスとモラレスは対戦してません…
 なかなか総当たりのライバル物語って難しいですなぁ…